Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンス/ぎなた

ぎなた義鉈、まれに擬鉈とも)は、日本で使用された鉄製の武具。その名の通り、戦闘用に改良されたの一種である。平安時代の末葉に発明され、源平合戦期から鎌倉時代末にかけて使用される。特に「弁慶がな、ぎなたを持って」という言葉が残るように、武蔵坊弁慶が愛用し、「ぎなた読み」の語源となったことで知られる。

形状[編集]

その形状については、現物がほとんど残っていないことから、長く定説を見なかった。しかし1989年昭和64年)4月、地元の郷土史家が綿貫神社岩手県平泉町)に奉納されていた通称「仁王様の大鉈」を発見したことで、大きく研究が前進することになる。

「大鉈」は形状こそ現在の鉈と大差ないが、全長1.6メートル、刃渡り90センチという、大太刀に匹敵する巨大なもので、総重量は30キロ近くに及んだと推定される。腐食が激しかったが、盛岡文化大学宇頭木肇教授らによる分析により、12世紀後半の源平合戦頃の作であること、またその側面に「」一文字の銘が刻まれていたことが明らかになった。この大鉈は古くより「仁王様」が使用したものとされ大切に保管されてきたが、この調査により当時文献でしか知られていなかった「ぎなた」の唯一の現存品であることが確認された。[1]

この「大鉈」が実際に戦場で使用されたものであるかどうかは議論が分かれるが、文献などに現れるぎなた(義鉈)はおおむねこれと同様の姿で描かれている。これによると主に騎馬武者が使用し、打ち合わせた相手の刀を一気にへし折り、そのまま相手を馬から叩き落とすという風に使われたようだ。西洋のソードブレイカーとコンセプトが近いが(詳しくは後述)、こちらはその重量ゆえ一部の強力の者しか扱えず、早々と衰退したと考えられる。また「斬る」より「叩く」に特化したという意味においては、南北朝時代に登場した金砕棒を先取りしたものであり、影響を指摘する声もある。[2]

歴史[編集]

誕生[編集]

義鉈がいつ、どのように発明されたかについては確かな文献資料が存在しない。恐らくは騎馬戦闘の発展の中で、在地の武士団が日常使っていた鉈を改造することで自然発生的に生まれたと見るのが自然だろう。

しかし一方で、義鉈の誕生については、先ほどの綿貫神社の所在地である旧綿貫村(現平泉町)に以下のような伝承がある。

後三年の役でのことである。清原武衡天魔と結託して妖刀を得、その切れ味で源義家軍を苦しめた。源氏方の武将であった鎌倉権五郎景政は一計を案じ、どんな刀でも斬れぬような頑丈で巨大な鉈を作らせ、戦いに臨んだ。打ち合うと武衡の刀はたちまち折れ、戦の形成は逆転。源氏軍は見事勝利を収めることができた。義家はその鉈に自らの名の一字「義」を与えて義鉈と呼び、源氏の至宝として代々祀ったという。(『綿貫村志』)

奥州後三年記』でも鎌倉景政が大鉈を武器に活躍した話がある。『綿貫村志』がまとめられたのが近世に入ってからであり、また『奥州後三年記』もその信憑性を疑われていることからもにわかにこの話を信じることは出来ないが、少なくとも後三年の役前後に、源義家あるいはそれに関係する武将の陣営で義鉈が用いられ始めたことは間違いないようだ。

何故この時期、この場所で義鉈が開発されたかについては諸説あるが、義鉈研究の第一人者で郷土史家の志賀津一は、当時の奥州武士団が有していた優れた作刀技術にその原因を求めている。上古、日本刀は直刀であったが、平安時代初め頃に俘囚の技術を取り入れ、現在の日本刀の原型である湾曲した蕨手刀が作られたことはよく知られている(日本刀の項目も参照)。そしてその俘囚の末裔である安倍氏は、この平安末期に至っても、まだ中央にはない高い作刀技術を保っていたという説がある(「樺月氏系図」)。安倍軍の切れ味鋭い刀に対し、義家陣営もその技術を取り入れることに務める一方で、その刀を無効化する策を練った。その過程で、義鉈のような兵器が誕生したのだと志賀は論じている。[3]

弁慶と義鉈[編集]

その後義鉈が文献に登場するのは、源平合戦期に入ってからである。この時期義鉈は、主に 源義経の陣営で使用されたようだ。一目山随徳寺本『源平盛衰記』には、義経が牛若丸と名乗った在京時代のエピソードとして以下のような話がある。

武芸の修行に励んでいた牛若丸はある日、平家のある公達が、源氏重代の宝物を横領しているという話を聞く。憤慨した牛若丸は一計を案じ、女装してこの公達の酒宴の席に紛れ込み、敵を酔わせた隙にその宝を奪って逃走した。さて、戻って箱を開けてみると、それは巨大な鉈であった。彼の小柄な体躯ではこれを使いこなかったため、「これを使えるような剛の者が、我が元に集い来るように」との祈願をこめて鞍馬山に奉納した。

その後弁慶という家臣を得た牛若丸の義経は、奥州へ発つ際にこの大鉈を持って行こうとする。

主従が鉈を納めた御堂に入ると、近寄りがたい威圧感を持った童子が件の鉈を片手に座っている。義経が名を問うと、「我汝が祖、八幡太郎義家なり。この鉈は八幡大菩薩の神威を持つ神器、これを以って宜しく賊を討ち果たせよ」と言い、かき消すように消えてしまった。義経はありがたさに涙しつつ、これに家の名を取って「義鉈」と名付け、弁慶に授けた。

このエピソードは完全に八幡神の神徳譚であり、以後の義経主従の活躍は全て八幡神の庇護によるものだと語られる。これは本来のテキストにはなく、後世付け加えられたものであろう。なおこの話は現在流布している本にはなく、逸文として本居春緋本居宣長の義理の甥、号は涼宮)の『衛府瑠璃古伝(えいふるりのふるつたえ)』に掲載されているのみである。

そして頼朝挙兵後、その元に馳せ参じた義経とともに、弁慶はこの義鉈を武器に大活躍し、これを手に立ち往生を遂げたことはあまりにも有名である。なお現在、しばしば弁慶の得物として「薙刀」が描かれるが、これは後世の誤りで、琵琶法師平家物語を語る際、「弁慶がな、ぎなたを持って……」と言っていたのがいつしか、「弁慶が、なぎなたを持って……」と変わっていったのである。このことは口承文芸研究の天才と呼ばれながら早世した弥生三十二の論文に詳しい。[4]またこの誤謬を皮肉って「ぎなた読み」という言葉が出来たのだが、現在は逆に「なぎなた」を「ぎなた」と読み違えたという意味に取られており、新しい歴史教科書を作る会などが修正を求めている

衰退、その後[編集]

奥州藤原氏の滅亡後、頼朝は源氏の至宝である義鉈の回収を命じたが、いくら探しても見つかることはなかった。その後、義経主従は実は生きているという噂が広がると、弁慶の愛用品であった義鉈についての伝承も、義経伝説ゆかりの地に伝えられるようになる。「仁王様の大鉈」の綿貫神社はその代表的な伝承地で、義経主従が逃亡の前に義鉈を納めていったという言い伝えがあったことが江戸期の資料から分かるが(『卯朔堂古話』)、その後忘れられ、「仁王様」の話に転化していったのだと考えられる。同様に他の伝承地でも、別の説話などと混同され、多くはすでに失われている。[5]

また義鉈自体も、使用できるのがごく限られた怪力の持ち主だけであったこと、平和な時代が続いたこと、また好んで使用した弁慶が賊の名を帯びて討たれたこともあってか早々と廃れてしまった。

一方で源氏ゆかりの、八幡神の神威を帯びた武具ということで、その一種「呪術的」な効果を狙い、蒙古襲来に際してある武将が義鉈を復元させ、使用したとの伝承が残っている。[6]軽快な機動力を武器とする軍に対しては有効な戦果を挙げ得なかったことは容易に想像がつくが、逆に物珍しさからか元軍に回収され、その戦利品として持ち帰られたことが記録から分かっている。[7]前述の志賀津一は、この元に渡った義鉈が、その後マルコ・ポーロにより西洋に伝えられ、ソードブレイカーの源流となり、さらにミッドランド王国に渡り、ある狂戦士の使う剣の原型となったという説を紹介している。[8] 結局この元軍との闘いを機に義鉈は急速に廃れ、南北朝期の『灘太平記』で楠正成の軍にこれを持った武者がいたという記録を最後に、完全に忘れ去られることになる。時代は下って江戸初期、甲州流軍学者の叔母加乗憲が弁慶の故事に習ってこれを復元し、徳川家康に献上したが、家康はそれを持つとただ一言「重い、こんなものが実戦で使えるか」と呟いて放り捨ててしまったという(『綿貫村志』)。このためもあってか江戸期にも、義鉈が顧みられることはなかった。

近代[編集]

ぎなた(義鉈)研究が本格的に始まったのは、20世紀に入ってからである。当初はその知名度の低さから、『平家物語』などの校訂においても薙刀の誤記とされる屈辱的な扱いを受けるが、徐々にその存在が知られるにつれ、そのような誤りは減っていった。もっとも現在流布しているテキストでも、その誤りを引きずっているものが極めて多いため、注意が必要である。

義鉈について初めて注目したのは、義経ゆかりの地である平泉出身の学者、平泉澄である。彼は楠正成の研究の過程で義鉈に着目した。まつろわぬ俘囚を破り、朝政を私にした平家を破り、元軍と戦い、さらに楠正成によって使用された義鉈こそ、尊王思想を体現する武器だと彼は考えたのである。彼は「義鉈千本あれば連合国など物の数にあらず」と主張し、義鉈の量産を陸軍に求めたが、一蹴されている。[9]

戦後に入り研究は一時停滞したが、平泉の薫陶を受けた志賀津一、また義鉈と薙刀の混同の過程を明らかにした弥生三十二などの活躍もあり、漸くその全貌が明らかになろうとしている。

文化財[編集]

  • 義鉈 銘義□(一字不明)1口 岩手・綿貫神社蔵
    • 刃長90.3cm、反り2.0cm、全長159.7cm
    • 形状 - 切刃造、三ツ棟。反りごく浅く、身幅広く、大切先となり、重ねが厚く豪壮である。生茎(うぶなかご)、目釘穴1つ、茎尻(なかごじり)は栗尻。鑢目(やすりめ)は大筋違(おおすじかい)。
    • 鍛え - 小板目肌よくつみ、総体に地沸(じにえ)よくつき、地景、地斑(じふ)交じり、ところどころ大肌、流れ肌交じり、沸映り(にえうつり)立つ。
    • 刃文 - 広直刃(ひろすぐは)を基調として、小乱れ、小丁子交え、足、葉(よう)よく入り、ところどころに金筋、砂流しを交え、匂口やや締まりごころとなる。物打辺は焼幅広く、帽子(切先の焼刃)は掃き掛けて焼詰めごころとなり、わずかに返る。
    • 彫物 - 表裏棒樋(ぼうひ)を掻き流す。
「弁慶がな、ぎなたを持って」というフレーズは人口に膾炙しており、武蔵坊弁慶が義鉈を愛用し、「ぎなた読み」の語源となったという説は広く知られているが、弁慶自身が伝説的要素の濃い人物であり、弁慶が実際に義鉈を用いたということは史実としてはにわかに認めがたいものである。当時の義鉈の確実な遺品は従来ほとんど知られず、平安時代末期から鎌倉時代にかけての義鉈の遺品と目されるものも、多くは後世に磨上げ(すりあげ、大太刀、薙刀等の寸法を縮めて刀に仕立て直すこと)されて原形をとどめないものが多い。そうした中で近年見出された本品は、文献によってその姿を想像するほかなかった義鉈の原姿をとどめるものとしてきわめて貴重である。義鉈については他に比較すべき遺品が皆無であり、製作年代や製作地を特定することは困難であるが、刃文が匂口の締まった沸出来(にえでき)である点、地肌の鍛えが柾(まさ)がかり、刃文は沸出来の直刃を主体として帽子を焼き詰めとする点などから、大和鍛冶の系統を引く一派の作品と思われる。ただし、映りごころのある点や、鑢目を大筋違とする点などから、備中青江派系統の作と見る説もある[10]。いずれにせよ、現存まれな義鉈の遺品のうちでも製作当初の姿を現在に伝える遺品として、日本刀剣史上きわめて貴重な遺品であるかどうかは何ともいえない。

フィクションにおけるぎなた[編集]

前述の通り、義鉈は早々と忘れられてしまった「幻の武具」のため、フィクション作品においての登場は極めて少ない。しかし近年、義鉈についての研究が進むにつれ、古典の再評価や現代のいくつかの作品に義鉈が取り上げられるようになった。以下にその一例を示す。

  • 御所桜濠川夜討(ごしょざくらほりかわようち)
    • 人形浄瑠璃・歌舞伎作品、宝暦12年(1762年)初演。弁慶が薙刀ではなく大鉈を持って登場するまれな演目。これにより一般とは異なる弁慶像を描いた作品とされていたが、先途の通り義鉈が得物であることが近年になって判明した。原作となった平曲が、現在伝わる平家物語とは異なった版を基にしていたため、正確な描写が残ったと思われる。浄瑠璃の詞章にも「ギ鉈」との記述が残る。[11]
  • 機動戦士ガンダム
    • 「トミノメモ」によればゲルググの武装は「ビームなギナタ」だったのだが、勘違いから「ビームナギナタ」が採用されたのだという。
  • ひぐらしのなく頃に
    • 竜宮レナが使う鉈は明らかに通常のそれではなく、そのサイズから義鉈をモチーフにしたと見られる。[要出典]

参考文献[編集]

  1. ^ 宇頭木肇『綿貫神社遺宝の年代史』(盛岡文化大学出版会、1991)
  2. ^ 百田鷽八『日本びっくり武器名鑑』(民明書房、1998)
  3. ^ 志賀津一「平安期義鉈の研究」(「岩手稗史年報」所収、1995)
  4. ^ 弥生三十二『"ことば"で辿る日本武闘史』(民明書房、1995)
  5. ^ 志賀津一「義鉈伝承地を歩く」(「岩手稗史年報」所収、1998)
  6. ^ モンゴル800研究会編『うそ?ホント?これでモンゴルが来ても大丈夫』(民明書房、2004)
  7. ^ フジオ・F・エイプリル『元朝は世界のメトロポリタンミュージアム』(民明書房、2002)
  8. ^ 志賀津一「義鉈とマルコ・ポーロの交易史」(「義鉈研究」所収、2007)
  9. ^ 志賀津一「義鉈終戦史」(「義鉈研究」所収、2004)
  10. ^ 霍王妃(フォー・ワンビ)『義経は韓国に渡っていた!?』(英才ムック、1999)
  11. ^ 『文耕堂浄瑠璃集』「御所桜濠川夜討」 岩波文庫紫帯 ISBN 1192296019

関連項目[編集]

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